室町時代、応仁の乱で大活躍した悪党「骨皮道賢」が残した6日間の武勇伝 (5/8ページ)
夜襲に放火に、暴れ回る足軽・悪党たち。
まぁ、そんなことはともかく、勝元の足軽大将(あしがるだいしょう)に取り立てられた道賢は呉服の織物や金作(こがねづくり)の太刀などを拝領したと言います。
悪党時代からの人脈を駆使して300の兵を掻き集めた道賢は稲荷山(現:伏見稲荷大社の裏山)を足がかりに、遊撃隊として西軍陣営にたびたび夜襲や放火を仕掛けるなど、後方攪乱を担当したそうです。
「……その徒三百余人を率い、稲荷(山)に蝿集(じょうしゅう)して、西軍の粮道を絶つ」
※先述『碧山日録』同日条の続き。
夜襲や放火は悪党時代からのお家芸、ここでも「昔取った杵柄」を奮って活躍した道賢。
応仁二1468年3月16日から18日にかけて、二度にわたり七条から六条東洞院にかけての街々と、五條大宮から高倉にかけて五町余(一町は約0.99ヘクタール)を火の海にしたのをはじめ、京都各所で神出鬼没、大いに暴れ回ったそうです。
その一方、襲撃を受ける側の西軍陣営はほとほと困らされたようですが、どのくらい困ったのか、と言いますと……。
西軍が稲荷山を総攻撃!道賢、絶体絶命?
歌川国貞による山名宗全肖像(「ふじの方・山名宗全」)。大層お怒りのご様子。
応仁二1468年3月21日。