室町時代、応仁の乱で大活躍した悪党「骨皮道賢」が残した6日間の武勇伝 (6/8ページ)
とうとう本気で怒った西軍の総大将・山名宗全(やまな そうぜん)が、斯波義廉(しば よしかど)、朝倉孝景(あさくら たかかげ)、畠山義就(はたけやま よしなり)、大内政弘(おおうち まさひろ)といった東軍の名だたる大将とその軍勢をフル動員して、稲荷山を完全包囲してしまうくらいには悩まされ続けていたようです。
上京から稲荷山のふもとまで、数万の軍勢が陸続と南下する様子を、興福寺の前別当経覚(さきのべっとう きょうがく)は、このように記録しました。
「一条より稲荷辺に至り間断なし。凡そ見事なり」
(意訳:京都の一条から伏見稲荷までの約4~5㎞の道のりを、びっしり隙間なく軍勢が進撃していく。ものすげえ!)
たった300人に対して数万の兵をもって臨むとは、これ以上に道賢の「戦上手」を評するものはないでしょう。
……が、いざ包囲されている道賢にしてみれば、そんなもの「迷惑千万」以外の何物でもなく、こうなってしまうと、さすがの道賢にも勝ち目がありません。
そして戦闘が始まると、伏見稲荷の社殿群(本殿、文殊堂、一重塔、本地堂、御影堂、五社御輿堂など)はことごとく炎上。
「荷山(稲荷山)の神祠、一時に焼灰(しょうかい)す。見る者悲泣(ひきゅう)す」
※『碧山日録』3月21日条。
もはや絶体絶命の窮地、ここで華々しく戦って散るか、どんなに生き汚なかろうと、再起を期して逃げ延びるか。
という場面で後者を選ぶのが、道賢が「武士」でなく「悪党」たるゆえん。
何とでも言わば言え、笑わば笑え。最後に笑った者こそ勝つのです。