室町時代、応仁の乱で大活躍した悪党「骨皮道賢」が残した6日間の武勇伝 (2/8ページ)

Japaaan

まず、道賢の名乗りである「骨皮」について、元々皮革業を営んでいた≒被差別民の出身だったという説や、自身の痩せこけた体格から呼ばれていた二つ名であるなど諸説ありますが、少なくとも

「先祖代々の名字を堂々と名乗れるような、まっとうな人生は送って来なかった」

ことは推測できます。

もしも道賢がまっとうに生きて来た人間なら、貧しかろうが庶民だろうが家名を重んじたでしょう。

と言って、真面目に皮革業を営んでいたとしても、何せ動物の死骸を取り扱う職業ですから、殺生によるケガレを嫌う仏教由来の価値観ゆえ、人々からは卑しまれたことでしょう。

次に名前の「道賢」について、史料によっては「骨河道賢入道」とあり、仏心のいかんはともかく、形だけでも出家した(頭を丸めた)事によって元の俗名「みちかた?」から、法名「どうけん」と呼ばれるようになったことが推察されます。

(※現代でも、名前の漢字は俗名のまま、音読みで法名とする事例が多くあります)

ちなみに漢字表記の「ゆれ」ですが、史料によって骨「河」だったり、道「見」、道「元」、道「源」だったり様々ですが、これも道賢が各地で暴れ回った事により、「ホネカワドーケン」という悪名が口伝えに拡散したためと言えます。

つまり、より多く人口に膾炙されたゆえの誤字表記であり、道賢の武勇を裏付ける証左と解釈することもできるでしょう。

いずれにしても、道賢が貧しい暮らしをしてきたことが察せられ、故郷で食い詰めて京都に出て来たものと考えられます。

名所司代・多賀高忠との出会い

松平定信「多賀豊後守高忠像」寛政七1795年。

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