田中角栄「名勝負物語」 第三番 石原慎太郎(3) (2/3ページ)
昭和60年2月、すでに重篤で再起は絶望視される中で、折りから田中派幹部だった竹下登がすでに「派中派」としての「創政会」を結成していたが、これを機とするように田中派の大勢をまとめた形で一気に政権の座に就いたのだった。竹下は、石原を運輸大臣として起用した。
石原は間もなく、裕次郎の死と向かい合うことになる。
この裕次郎の死は、さらに石原を突き動かすことになったようだ。天下取りへのチャレンジ、すなわち初の総裁選出馬への決断である。
折りから、田中の呪縛から解かれて悲願の首相の座に就いた竹下は、リクルート事件に連座して失脚したが、影響力温存を窺って気脈のある中曽根派幹部だった宇野宗佑を首相の座に押し上げた。が、この宇野も就任早々、花街・神楽坂の芸者とのスキャンダルが発覚、そのさなかの参院選で敗北してわずか68日で退陣という自民党にとっても混沌とした時代であった。
★総裁選出馬、再びの挫折
平成元年、時の総裁選は三木派から河本(敏夫)派に代わっていた同派幹部の海部俊樹、田中派分裂後の竹下派に加わらずの二階堂進のグループから林義郎、そして石原の3人が手を挙げた。「角福総裁選」以来、じつに7年ぶりの国会議員と都道府県代議員による投票で争われたが、結果は最大派閥の竹下派が推した海部が451票中278票を得て勝ち上がった。
海部勝利の背景には、早稲田大学雄弁会で海部の先輩でもあり親密だった竹下が、「宇野後」のさらなる影響力温存のため担ぎ上げたという理由のほかに、田中以来、間断なく続いた「金権」風潮に対し、自民党再生のために「クリーン・イメージ」の強かった海部に軍配が上がったということであった。
さしもの石原も、それまで一貫して「金権」批判に徹していたものだったが、政界の力学「数の論理」には勝てなかったということでもあった。批判の最大の標的だった田中がすでに亡くなっていたのも、少なからずの影響があったとも思われた。
再びの挫折感を味わわされた石原は、それから6年後となる平成7年4月14日の国会議員生活25周年の国会演説で、当時の政治状況を「今の国家は去勢された宦官である」と批判、「私は、今日この限りにおいて国会議員を辞職させていただきます」と結んだのだった。