田中角栄「名勝負物語」 第三番 石原慎太郎(3) (1/3ページ)

週刊実話

 東京都知事選に出馬したものの無念の敗北を喫し、人生初の大きな挫折感を味わったであろう石原慎太郎は、その翌昭和51(1976)年12月の総選挙に出馬、当選を果たして再び国政へ戻る。時に44歳。福田(赳夫)内閣で初の入閣、環境庁長官のイスが待っていた。石原の都知事選出馬を強く後押しした中曽根康弘幹事長の推ばん、一貫して「親福田」の姿勢を通してきたことによる福田の“報恩”との観測もあった。

 初の大臣となった石原の“舌鋒”は、さらに勢いを得たように鋭かった。

 例えば、月刊誌『現代』で環境庁記者クラブの記者を批判、この発言により同記者クラブが反発して1カ月以上にわたり定例記者会見をボイコットする騒動があった。また、「ネクタイは産業優先時代の遺物。役所からネクタイを追放したい」とやって、日本ネクタイ組合連合会から抗議を受けたこともあった。相変わらず、自信満々、怖いものなしの石原であった。

 一方の田中角栄と言えば、ロッキード事件が表面化、やがて逮捕、さらには最愛の新潟の母・フメが死去するなど、置かれた状況は最悪であった。しかし、「闇将軍」として政界への影響力保持には一歩も引かず、福田首相を2年で引き降ろして、「盟友」の大平正芳を担ぎ上げ、その大平が首相在職中に急死すると、やはり気心の通じた鈴木善幸を首相の座に担ぎ上げるといった具合だった。

 そうしたさなか、石原と肩を組んで「青嵐会」を結成した中川派領袖であった中川一郎が、北海道・札幌市のホテルで謎の自殺を遂げるといった事件があった。“田中批判”を掲げる「青嵐会」ではあったが、田中はこの中川の人柄、将来性を買っており、裏では何かと“政治指南”もしていただけに、さらなる心痛を負った形となった。

 一方の石原もまた、「盟友」の死は大きなショックだったと思われる。中川の死は、対峙する田中、石原両人にポッカリと穴を開ける出来事でもあった。石原はまた、中川の死の直後、実弟・裕次郎が病状悪化となるなども加わり、穏やかな日々とはかけ離れたもののようであった。

 そうした中、田中が脳梗塞で倒れた。

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