バイク事故、暴行事件、独立騒動…ビートたけしとたけし軍団「師弟愛の絆」35年史 (2/5ページ)

日刊大衆

軍団ができたのも、最初は“俺について来たい奴は来いよ”という考えからだったはずです。自分で作った四谷(東京)の『北の屋』という居酒屋に毎日のように軍団を集めて、夕食会だか、飲み会だか、ドンチャンやっていましたからね。そうやって、食えない軍団にも、飯を食べさせてあげていたわけです」

■ツービートとして漫才ブームでスターダムに

 たけしがツービートとして漫才ブームで一気にスターダムに躍り出たのは、1980年のこと。その頃から、たけしに憧れる若手芸人やファンが、周囲に集まりだす。「たけしさんは草野球が大好きでしたから、チームに入れて、そのまま弟子になった人もいます。また、『オールナイトニッポン』で若者のカリスマになっていましたから、有楽町のニッポン放送の前で出待ちをして、弟子入りを志願して軍団に入った人もいます」(前出の芸能記者)

 当時のたけしは太田プロダクションに所属していたが、軍団メンバーには、自分のギャラから給料を支払っていたという。「たけしさんは、“ガキ大将気質”なんでしょう。軍団から、“殿”と慕われて持ち上げられるのも好きで、芸人さんであれほど面倒見がいいのは、たけしさんが最後だと思いますよ」(前出の石川氏)

 たけしは特に、漫才ブームの直後に弟子入りしてきた初期の軍団メンバーを大切に思っているようだ。「初期の軍団メンバーは、たけしさんの番組に一緒に出演し、お茶の間の人気者になっていくんですが、収録後に説教されることも多かったようです。たけしさんは、“お前ら本気でやってんのか! あんなくだらねえ感じで、これから先、何年も飯が食っていけんのか!”と細かくダメ出しをしたといいます」(テレビ局関係者)

 “芸”に対しても、人一倍厳しかったという。「芸がなければ芸人とは言えない、というのが口癖でした。

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