田中角栄「名勝負物語」 第五番 小沢一郎(8) (2/3ページ)

週刊実話

二階堂には、田中と「合わせ鏡」と言われたように、田中の意を自分なら継げるとの思いがあったと同時に、田中が待ったをかけていた竹下が田中派を継ぐ形になることは、なんともしのびなかったということであった。

 しかし、二階堂の“野望”は、すでに田中派の大勢を固めた小沢らの竹下グループの前に、たちまちかき消された。

 竹下グループは田中が倒れたことで、一時、創政会そのものは解散したものの結束は維持、昭和62年7月、ついに113人を擁する竹下派経世会として独立した。ここに、長く政界を壟断し、一致団結した組織力、行動力をもって「田中軍団」とおそれられた田中派は、分裂をもって消滅した。

 一方、竹下は竹下派結成からわずか4カ月余後、悲願の首相の座に就いた。退陣する中曽根総裁(首相)が、自民党内最大派閥の竹下派に逆らえず、後継総裁指名に竹下を「裁定」したということだった。

★小沢官房副長官の「剛腕」

 成立した竹下内閣で、小沢は内閣官房副長官として官邸入りを果たした。時に、「竹下内閣の官房長官は3人いる」と言われた。正式な官房長官は竹下の側近である小渕恵三、もう1人は竹下首相自身、そしてもう1人が官房副長官だった小沢である。

 つまり、小渕はともかく、竹下も小沢も“官房長官的な仕事”を兼ねていたということであった。当時の官邸詰め記者の証言が残っている。

 「田中は『(小沢)一郎はハラがすわっている』と言っていたが、小沢は官房副長官のポストでも、ハラのすわった対外交渉術を見せつけている。竹下の小沢への期待は、日米交渉の“裏方”として成果を出すことだった。時に、日米間には、日米建設市場の開放、牛肉、オレンジなど農産物の自由化問題という“2つの重い荷物”があった。ともに、それまで2年余もモメてきた懸案である。ところが、小沢はタフ・ネゴシエイター(強力な交渉人)ぶりを発揮、とくに建設市場開放問題を日本ペースで落着させたのが光った。竹下は改めて小沢に対し、『“剛腕”ぶりを見せつけたな』と感心しきりだった」

 しかし、この竹下内閣、懸案の消費税3%の導入には成功したが、メディアによる当初の長期政権予測を裏切る格好となり、わずか1年半の「短命」で幕を降ろしてしまった。

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