原辰徳監督「巨人を救うか、潰すか?」ミスター長嶋茂雄との炎の絆と激動人生 (2/3ページ)

日刊大衆

巨人の“4番サード”として、プロでも、その実力を証明しました」(スポーツ紙デスク)

 “若大将”の愛称で、巨人の看板選手となった原。だが、彼のプロ野球人生は順風満帆には進まなかった。86年9月の対広島戦。剛腕・津田恒実投手の直球をファウルした際、左手首を骨折。このケガが原の選手生命を一変させてしまう。「原は典型的な引っ張り型のバッター。しかし骨折の影響で、バットが全力で振り切れなくなり、思い通りの打撃ができなくなってしまったそうです。後年、本人も“あれがなければ……”と無念さを口にしていました」(ベテラン記者)

 そんな原を追い立てるかのように、今度は“巨人の4番という伝統”がのしかかっていく。「3割打っても、30本塁打をマークしても、“チャンスで打てない”などと叩かれ続けた。巨人のスーパースターだけに、周囲は原に、どうしてもONのような活躍を期待してしまう。その重圧は、かなりのものだったはずです」(前同)

■監督として優勝7回の圧倒的な実績

 93年、長嶋氏が巨人の監督に復帰。13年越しで指揮官と選手の関係になった2人だったが、すでに原のピークは過ぎていた。「ミスター就任前の時点で、守備位置は三塁から外野、一塁と変えられ、4番を外される試合も多くなった。就任後の94年には、FAで落合博満が移籍。かつてはミスターの恋人だった原ですが、もうチームに居場所はなくなっていました」(元巨人担当記者)

 そして95年、原は長嶋監督に見守られながら、ユニフォームを脱いだ。「引退会見で、原は“私の夢には続きがある”という言葉を残しました。原の現役晩年はチャンスで代打を送られるなど、屈辱の連続だったはず。この悔しさが、監督として見返してやるという反骨心、そして勝負への執念を生んだのかもしれません」(前同)

 原の“夢の続き”は3年後に訪れる。98年、コーチとして巨人に復帰したのだ。「当時、読売グループの上層部は、ポスト長嶋の人材を探し始めていました。そこで白羽の矢が立ったのが原です。

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