品川区大井にある大井蔵王権現神社を調べてみたら面白い言い伝えを見つけた (4/8ページ)

心に残る家族葬



何故赤い顔に高い鼻なのかというのも、はっきりとした理由はわからないものの、鳥タイプの天狗同様、伎楽の面で、鼻高・耳が大きい「治道(ちどう)面」「酔胡従(すいこじゅう)面」、更に地獄の獄卒である「赤鬼」などが、高慢を体現する鼻高タイプ天狗のイメージ形成に大きく影響したのではないか、と推察されている。

■山伏と天狗

中世末期から江戸時代以降、山で修行していた山伏たちは山を降り、「富山の薬売り」的に全国各地を経巡ったり、時に、ある特定の町や村に定住したりして、災難予防や病気平癒のための加持祈祷を生業とするようになっていった。

先に紹介した『新編武蔵風土記稿』によると、江戸後期に北品川宿の北馬場町(現・品川区北品川2丁目)に大光院、南品川新開場(現・品川区東品川1丁目)に仙杖院と不動院、合計3人の山伏が住んでいた。しかも仙杖院は妻と4人の子供と一緒に所帯を持っていたのだ。もちろん、定住せずにあちこちを渡り歩き、地域社会の人々とあまり交流を持たなかったために、記録に残らなかった山伏たちも多くいたはずだ。

こうしたことから、山伏姿で羽団扇(はねうちわ)を持った赤ら顔で鼻が高い「天狗」そのものも、山奥に住み、人間とは全く隔絶された、正体不明の恐ろしい存在ではなくなり、ある意味「近い」、なおかつ、人間に害を及ぼすばかりではなく、時にご利益をもたらしたり、逆に様々な災いから守ってくれたりする「益神」的存在に変容していった。

■村を救ったとされる天狗は、実は山伏だったのではないかという説

これらのことを勘案すると、村人を救った権現台の「天狗」は、実は妖怪ではなく、山を降り、人々を救うことを生業としていた山伏のひとりだったのではないだろうか。そしてその山伏は、江戸後期の北馬場町の仙杖院のように、「地に足がついた」格好で「法力(ほうりき)」を用いていたわけではなく、「いつも、どこにいるのかわからない」「誰なのか、よくわからない」状況で、あちこち飛び回っていたことから、いつしか妖怪の「天狗」として村人たちに認識されてしまい、そのまま後世に語り伝えられていったのではないだろうか。

何故そのようなことが起こったのか。
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