歴代総理の胆力「黒田清隆」(1)明治政界第一の酒乱 (2/2ページ)

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しかし、逆に大隈のほうが罷免されてしまうなど混乱が起き、政変を呼ぶことになった。黒田は失脚同然ながら、薩摩閥では重鎮だったことから開拓長官を辞したあと、内閣顧問としてとどまることができた。

 「余いやしくも陸軍中将兼参議の職にあるからには、死は少しも恐れざる也。新聞記者が筆を以て論ずる位の事は、屁の屁とも思わざる」の言葉(「東京日日新聞」明治14年9月6日付)は「払い下げ事件」を醜聞として扱った新聞に対し「おまえらにナニが分かるか。オレは私利私欲でなく、開拓の必要性から信念を持ってやったことだ。職も命も惜しむものではない」との心意気が伝わる一方、自ら信じたことには一歩も引かぬ“頑固もの”黒田の「胆力」も、また浮かび上がるということである。

 さて、政変ののち、伊藤博文内閣は諸外国との不平等条約の改正に譲歩が目立ったことで、政権の主流派である長州閥に対して薩摩閥が巻き返し、伊藤は退陣を余儀なくされた。ここに、重鎮ながら内閣顧問として、無聊を慰めていた黒田に第2代内閣総理大臣のお鉢が回ってきたということだった。

 ところが、黒田の政権運営はうまく行かなかった。伊藤内閣が躓いた「条約改定」に反政府運動のリーダーの大隈重信ら時の実力者をズラリ並べた「元勲網羅内閣」で乗り出したが、結局は閣内の意思統一ができず、「条約改正」交渉も中断を余儀なくされ、黒田内閣はわずか1年余で総辞職を余儀なくされたのだった。

■黒田清隆の略歴

天保11年(1840)11月9日鹿児島生まれ。薩長連合に奔走、箱館戦争に参謀として参加。屯田兵創設、開拓長官を経て、札幌農学校開設。総理就任時、47歳。明治13年(1900)8月23日、脳出血で死去。享年59

総理大臣歴:第2代1888年4月30日~1889年10月25日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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