田中角栄「怒涛の戦後史」(2)母・田中フメ(下) (2/3ページ)

週刊実話

ところが、女衆を皮切りに無遠慮な笑いは、しのび泣き、すすり泣きに変わっていった」(『男たちの履歴書』クレスト社)

 その直後の『文藝春秋』9月号に掲載された「角栄よ デカいこというでねぇ」と題するインタビュー記事では「総理大臣がなんぼ偉かろうが、あれは出稼ぎでござんしてね」と、冷静な“息子観”を取り戻したものである。

 また、田中内閣ができて、初のお国入りのときも同様だった。田中は田中番記者らと2台のヘリコプターに分乗、出身校である西山町の二田小学校の校庭に降りた。歓迎の小旗を振る黒山の人の前で、小さな木箱に乗った田中のあいさつが始まった。

 「総理大臣になると、なかなか帰って来られません。ばあさんでも、死んだときでないと…」

 「ばあさん」とされたフメは、この田中の声を羽織紋付き姿で、教室のガラス戸のうしろで聴いていたそうである。地元記者が言っていた。

「息子に真っ先に会いたいだろうが、あえて人前には出なかった。子供たちを引率してきた先生たちに、丁寧におじぎをして見送っている姿が印象的だった。いかにも“明治の母”らしく、控え目で凛としていた」

★イワシで弔った母の死

 しかし、田中の天下に陰りが出るのは早かった。金脈・女性問題を引き金の首相退陣、追い討ちをかけるようなロッキード事件の発覚、そして逮捕であった。

 フメの心痛は、相当のようであった。周囲への気配りにたけていたフメだったが、この頃は人目を避けるように外出も控えていた。そして、ついには次のような言葉も口にしたのだった。

 「おらは百姓、働く一方の人間ですけ。政治家は、もうコリゴリだで。こんだの世には、政治家には関係しません。働く一方の家さ、嫁にいきてぇもんだ」

 そのフメが86歳で亡くなったのは、昭和53(1978)年4月18日であった。前年1月から、すでにロッキード裁判の東京地裁での審理が始まっていた。心痛、癒えぬ中での死であった。

 筆者は、5月の連休になって西山町の実家で営まれた法要を取材している。折りからの「スト権スト」で鉄道が全面的にストップの中、「闇将軍」として君臨していた田中は、田中派議員100人超を召集してみせた。

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