歴代総理の胆力「原敬」(3)原政権の誕生は時代の流れの象徴だった (1/2ページ)
わが国の政党政治の立役者にして、抜群の政治力を発揮した原敬の本格的な社会への第一歩は、新聞記者から始まった。「郵便報知新聞」「大東日報」の記者をやる中で、フランス語の堪能さと人一倍の努力家が買われ、外務省に採用された。
ここで出会った人物が、「陸奥外交」で知られた第二次伊藤博文内閣の外務大臣、陸奥宗光であった。人間は人との好運な出会いがあってこそ、伸びるべき人物は伸びるチャンスを得る。陸奥が松方正義内閣で農商務大臣として入閣した際、原はこの陸奥大臣の秘書官に抜擢され、これを機に二人は「反藩閥」の同志となったのであった。
その後、原は陸奥外相の下で外務省通商局長、そして次官のポストを得ることになる。やがて、朝鮮特命全権公使に任命されるが、このあたりでもはや人脈づくりは整ったとして官僚生活にピリオド、改めて記者生活に戻った。「大阪毎日新聞」に編集総理として入社、やがて社長を務めたあと政友会に入党、ここで念願の政治家への夢を実現させたものだった。「大阪毎日新聞」の社長を辞めたのも、社内の中立主義の空気にイヤ気がさしてのものであり、ここでも気骨と闘争心のカタマリを証明した形だったのだ。
その後、第四次伊藤博文内閣で逓信相として初入閣、第一次・第二次西園寺公望内閣と山本権兵衛内閣では内相と重用され、今の岩手県盛岡から総選挙に出馬、衆院議員として議席を得たのであった。衆院議員となった後は、大隈重信、西園寺公望のあとを受けて第三代政友会総裁に就任。ここでようやく「初の政党内閣」は手の届くところまで来たのだった。陸奥の死後、陸奥と原の人脈は一致して政党内閣の実現を目指したものであった。
原政権は、寺内正毅内閣が「米騒動」などで民衆の怒りを買い、退陣に追い込まれたことで巡ってくる。ここに明治維新以来50年を経て、それまで大隈重信(佐賀)、西園寺公望(京都)以外は薩摩(鹿児島)と長州(山口)で多く占められていた政権は、初めて「一山百文」とヤユされた東北の南部藩出身という異例の形で発足したのだった。この原政権の誕生は、まさに民衆の意識の変化、大きな時代の流れの象徴ということでもあった。原内閣は、全国的なブームを起こし、「平民」という言葉がいち早く流行語にもなったのである。