森鷗外にとって「サードプレイス」だった小倉時代の墓所探訪 (3/6ページ)

心に残る家族葬



更に鷗外は、小倉馬借町(ばしゃくまち、現・北九州市小倉北区)にあったカトリック教会の司祭、フランソワ=グザヴィエ・ベルトラン神父(1866〜1940)の下でフランス語を習い始めたり、師団の将校のためには、プロイセンの将校、カール・フォン・クラウゼウィッツ(1780〜1831)の『戦争論』(1832年)を、そして小倉市民有志のためには心理学の講義を自ら行ったり、小倉の安国寺第27代住職・玉水俊虠(たまみずしゅんこ、1866〜1915)から唯識論の講義を受け、自分は逆に俊虠にドイツ語を教えていたのだ。

■小倉赴任時代の経験が森鴎外の代表作「山椒大夫」を作った

こうした日々を過ごしていた鷗外だったからこそ、「負け惜しみ」ではなく、心から「心身共に健(すこやか)」となり、「少シモ退屈ト云(いう)コトヲ知ラズ」と思ったのだろう。実際、この小倉経験が、彼が旺盛な作品を生み出し始める明治42(1909)年以降の、彼自身の作家としての人生の下地となった時期だったことは言うまでもない。

彼の作品でよく知られるもののひとつ、『山椒大夫』(1915年)は、筑紫(現・福岡県筑紫野市)にいる父を尋ねて、越後(現・新潟県)を旅していた幼い安寿(あんじゅ)と厨子王(ずしおう)の姉弟が、人買いに売られ、苦難の道を歩むという、浄瑠璃や説経節で長らく語られてきた物語だが、これを鷗外は過去の物語そのままに描写するのではなく、自身の想像力をもって表現することに成功した。しかもこの山椒大夫物語を後に物するきっかけとなっていたのが、小倉赴任後に訪れた太宰府において、鷗外は、菅原道眞(845〜903)が太宰府に流された際、紅姫と隈麿という幼子も連れてきていたのだが、その子らも程なくして亡くなってしまったという話を聞いていた。それが後々、鷗外の『山椒大夫』に活きたというのだ。

■森鴎外は墓所も探訪していた

しかも鷗外の「歴史探訪」は、ただ単に名所旧跡を訪れ、その土地ゆかりの言い伝えを聞き取ることばかりではなかった。特に鷗外は、多くの著名人の墓を訪れ、その墓をスケッチし、墓石に掘られた文字を克明に記録し、あれこれと思索を巡らせていたのである。彼が訪れた墓は、以下の通り、8箇所にも及んでいる。
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