八代亜紀「“美人喫茶”で歌って…」ズバリ本音で美女トーク (3/5ページ)
そのときにレコードをリリースする話があったんですけど、費用が200万円かかるって言われてね。
――それって当時だと、かなり高額ですよね?
八代 そう、だから、そのときはお金もなかったし、そこまでしてレコードを出す気にはならなくて断ったの。その後、銀座のクラブからお誘いを受けてね。ギャラも月給で20万円って言われて。当時のサラリーマンの平均月給が8000円~1万円の時代にですよ。
――とんでもない世界ですね、さすがは銀座です。
八代 ね、私も東京ってすごいなって驚きましたね。
――その後、本格的にプロとしてデビューされました。
八代 さっきも話したけど、デビューするのにお金がかかるって聞いていたからずっと断っていたんですよ。でも、あるときクラブに務めるお姉さんたちに言われたんです。「世の中には亜紀ちゃんの歌を聴きたくても聴けないかわいそうな女性が全国にたくさんいて、彼女たちにも亜紀ちゃんが歌う“女心”を伝えるためにもレコードを出すべきよ」って。そう言われて、正直、冷やかし半分でレコード会社へ行ったら、ピアノの前でディレクターさんたちが待っていらっしゃったの。
■キャバレーでひどい話を聞かされて
――もう後には戻れなかったわけですね。1971年、21歳のときに『愛は死んでも』でデビューされました。
八代 そのとき、実家の母から電話で“亜紀の夢は本当だったんだ。あのとき叱らなければよかった。俺が悪かった”って父が泣いたっていう話を聞かされて。
――まさに浪曲の世界そのものですね。デビュー翌年にはオーディション番組『全日本歌謡選手権』(読売テレビ)に出場されました。
八代 デビューしてもヒットに恵まれずにいたんです。このままではダメ、私なりにケジメをつけようと思って応募したんですね。そこで、10週連続勝ち抜かなかったら“八代亜紀を捨てよう”“歌手を辞めよう”って。
――10週連続優勝し、見事にグランドチャンピオンになられて、翌年には『なみだ恋』をリリース。これが120万枚を突破。