今はなき隣組による葬儀の助け合い。死が繋いだ隣近所との絆。 (3/3ページ)
「隣組」制度の発祥に負の側面はあるにせよ、戦後に育った者たちには関係のないことだった。家族が亡くなって憔悴しきっている時に、近所の親しい人たちが慰めてくれたり、世話をしてくれることがどれほど救いになったことかしれない。「一人」ではなく「独り」になった時、本当に孤独ではないとその時に言えるだろうか。
■監視か放置か?監視カメラがお天道様の役割を果たしている?
相互監視というが、むしろ現代は放置しすぎな感がある。周囲の目が気になることは立ち居振舞いに気を配るようになるということだ。これも最近では死語になりつつあるが「お天道さま」という言葉がある。大人は子供に「お天道さまが見ているよ」と、道に外れたことをしてはいけないと戒めた。いくら隠れて悪いことをしても天はいつだって見ていると。「自由」や「個」の尊重が手放しでよいわけではない。
いまは防犯カメラがその役目を担っているといえようか。隣近所の視線は現代では煩わしさの象徴かもしれない。しかしその視線は多様だ。噂好きの好奇な目もあれば、子供の成長を見守る温かな目もある。防犯カメラの無機質な目は単なる行動の記録である。なんとも寂しいことではないか。
■「死」が生む「絆」
映画やドラマなどでみられるような風景は確かに存在した。勝手口に鍵などなく、近所のおばあちゃんが醤油や味噌をもらいにくるのは日常だった。筆者の地域では告別式の間、故人の家に残り留守を守る「留守番」役が隣組の中からひとり選ばれた。顔見知りといえど、他人を家に残すのである。信頼、信用などと気張ることではない。それが当たり前だったのだ。先述したように、子供にも、より小さな子の面倒をみるなどの仕事があった。かつての葬儀は隣近所同士の助け合いの葬儀であった。死という悲しみが新たな絆を生んできたともいえる。この相互無関心の時代において、単なる懐古主義では済まされない見直すべきことである。
注1:NHK 首都圏ニュースWEB 10月08日 16時51分配信
9月1日、東京・江戸川区のマンションに帰宅したアイドル活動をする20代の女性に対し、わいせつな行為をしてけがをさせたなどとして、26歳の男が10月8日起訴された。男は「SNSに投稿された女性の顔写真の瞳に映る景色を手がかりに住んでいる場所を特定した」と供述している。
注2:2019年10月12日放送「マツコ会議」(日本テレビ系)