桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った服部小平太と毛利新介…その後の人生どうなった?【三】 (4/6ページ)
この辺りから、かつて共に義元を倒した小平太と出世ペースに差が生じてきますが、新左衛門も手指を食いちぎられているため、武芸においては黒母衣衆の中で同輩たちに引けをとったようで、以降は秘書的な役割が多くなります。
永禄十二1569年の大河内城(現:三重県松阪市。北畠氏の居城)攻めや天正十1582年の甲州征伐では尺限廻番衆(さくきわまわりばんしゅう)として信長に随従、身辺整理や文書管理などを務めました。あるいは小姓時代と変わらず、夜伽も命じられたかも知れません。
本能寺の変・二条御所で討死そんな新左衛門ですが、天正十1582年に信長が上洛すると、その嫡男・織田信忠(のぶただ)の側近として仕えます。
同年6月2日に起きた「本能寺の変」では二条御所(二条城)にいた信忠を逃がすべく、同僚の福富平左衛門秀勝(ふくずみ へいざゑもんひでかつ)や菅谷九郎右衛門長頼(すがや くろうゑもんながより)、そして服部小平太の弟・小藤太(ことうた)らと共に説得します。
しかし信忠はあくまでも「もはやこれまで。明智方に捕らわれて生き恥を晒すよりは、今この場で腹を切る」と聞かず、押し問答をしている内、明智軍に包囲されて脱出の機を逸してしまいました。