会葬者が2万人にもおよんだという国会議員も務めた九州の大親分 吉田磯吉 (5/7ページ)
■献体を遺言書にしたためていた吉田磯吉
このようなドラマチックな生涯を送った吉田磯吉だが、「死後の後始末」もまた、鮮やかなものだった。
幼少期の吉田磯吉は、松山藩を脱藩した元士族の子であったにもかかわらず、よそからの「流入者」ということで、吉田磯吉同様、農業を営んでいた元福岡藩士の「トントン(お坊っちゃん)」だった杉山茂丸(しげまる、1864〜1935)から、一方的にいじめられ続けていた。腕力には人一倍自信がある吉田磯吉ではあったが、武士の「上下関係」を重んじていた吉田磯吉は、腰に木や竹の「刀」をつけて、殴りつけてくる杉丸に一切歯向かうことはなかった。しかもそれは吉田磯吉が大親分になってからも続いていたようで、控え目に下座に座る吉田磯吉に、横柄な態度を取り続ける政界の「黒幕」かつ、「ホラ吹き杉丸」と渾名されてもいた杉山に対して、吉田磯吉を慕う周りの人々は、「あれ程にされるのにと、多少癪にさわる」と陰で言われるほどだった。
そんな杉丸だったが、失われた権威を笠に着た、単なる「嫌なヤツ」ではなかった。敬太郎によると、杉山はある時吉田磯吉に、「君の胃袋を見せてやれば、(新しい)博士が沢山出来る…(略)…俺も死んだら遺骸を帝大に寄贈して研究のお役に立てて貰うつもりだ。殊に(1914(大正3)年、48歳の頃、胃がんの切除手術を受けた)君のは世界に類例のない胃袋だから、決して空しく灰にしない様に」と語った。それを吉田磯吉は笑ってうなずいていたという。吉田磯吉は杉丸の言葉を聞き流すことなく、献体の意志を遺書にしたため、後世の医学に役立つよう準備していたのである。
■献体の結果はというと…

21年前に胃がん手術で切除されていた胃が、標本として九州大学に保存してあったことが幸いし、福岡県在住の医師、宮城順・木村三朗によって、吉田磯吉の死亡当時の胃と比較検証され、1937(昭和12)年に「胃癌切除二十一年七ヶ月後に於ける消化器の態度に就て」という医学論文が記されたのである。