会葬者が2万人にもおよんだという国会議員も務めた九州の大親分 吉田磯吉 (2/7ページ)
■吉田磯吉の生い立ちから頭角を現すまで

吉田磯吉の父方の家系はもともと、四国・松山藩に仕える武士だった。10代目に当たる父・徳平は同藩の者と争いを起こし、脱藩することとなり、全国各地を転々とすることとなった。磯吉が生まれて程なくして、父親が亡くなり、残された家族は貧困に陥ってしまった。しかも武士の家系でありながら、一家は芦屋においては最下層の立場である「他国からの落人(おちうど。無籍者)」としての蔑視を受ける日々でもあった。そんな吉田磯吉は9歳で丁稚奉公に出された後、野菜や鮮魚の行商を行ったりしていたが、16歳で遠賀川(おんががわ)の艜(ひらたぶね)乗りとなる。そこで多くの人々と交わる中、任侠度胸の道を歩み始めた。その後吉田磯吉は、1891(明治24)年の筑豊興業鉄道(現・JR九州筑豊本線)開通以降、衰退しつつあった遠賀川水運に見切りをつけ、発展途中にあった若松港に移ってから、港近辺の会社や商店、妓楼(ぎろう)などの用心棒となり、商売敵と果敢に戦う「親分」としての頭角を現していく。
■危険極まりない地域だった若松における吉田磯吉が放つ存在感
当時の若松は、ジャーナリストの大宅壮一(1900〜1970)に、「日本における“暴力の街”ナンバー・ワンといえないまでも、ビッグ・スリーには確実に入る」と言わしめた「場所」だったが、吉田磯吉はその「空気」に飲み込まれたり、傲りの果てに足元をすくわれ、自滅してしまったりすることはなかった。