会葬者が2万人にもおよんだという国会議員も務めた九州の大親分 吉田磯吉 (3/7ページ)

心に残る家族葬

発展・拡大の一途を辿る若松港周辺には福岡県内はもちろんのこと、九州・沖縄の各県、近在の山口県のみならず、中国地方や京阪神から流れてきた大量の人々、そして「ゴンゾ」と呼ばれ、自らを「下罪人(げざいにん)」と自嘲しながら、喧嘩っ早く、仕事が終わった後は「飲む・打つ・買う」などの娯楽を好み、「宵越(よいご)しの金を持たない」といった刹那的な生活を送った、筑豊各地の「川筋(かわすじ)気質」を有した石炭仲士たち、彼らを「得意客」とする盛り場の大繁盛、更に若松の向かい側に位置する八幡(やはた)に官営八幡製鉄所(現・日本製鉄八幡製鉄所)の建設工事が始まった頃には、全国各地からおよそ2万人の土木関係の労働者が集中していたという。

そうした「無秩序」状態の筑豊〜若松〜八幡を含む福岡県北部において、「物静か」「温厚篤実」「物腰も極めて慇懃で、一見好々爺」「とても人なつっこいというか、いわゆる魅力がある人」と評され、生活訓を「度胸は忍耐。白刃の下をくぐったり、鉄砲弾の下をくぐってゆくのは、本当の勇気というもんじゃない。そして、悪いことをせぬことじゃ…」としていた吉田磯吉は、「前科と刺青のない親分」「子分のために死ねる親分」として、腕力や胆力のみならず、「調停役」「相談役」としての知力も駆使して、頂点にのぼり詰めたのである。

それはひとえに、新興都市、或いは日本そのものが近代化に向かいつつあったものの、前時代的な「親分」「子分」の絶対的な主従関係が「当たり前のもの」として存続し続けていた「時代の空気」「場所の空気」によって、アウトロー気質の男性のみならず、ごく普通の一般大衆にさえも、任侠的気風が歓迎され、吉田磯吉という人間そのものを後押ししたためであったことは言うまでもない。

■衆議院議員にまでなった吉田磯吉

しかも吉田磯吉は地域、或いは九州各県を超え、京大阪、果ては関東にまでも顔が利く「親分」「顔役」のままで終わることなく、1915(大正4)年には民政党に属する衆議院議員となり、17年間活動した。議員時代の吉田磯吉は、1921(大正10)年、政友会の日本郵船乗っ取りを、筑豊一帯から300〜500人にも及ぶ、「顔役」「親分」「子分」たちを東京に集めて「手ぐすねを引いていた」など、持ち前の「親分肌」を忘れることはなかった。

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