会葬者が2万人にもおよんだという国会議員も務めた九州の大親分 吉田磯吉 (4/7ページ)
更に吉田は実業の才能もあったため、吉田商事株式会社、若松魚市場、若松運輸、石炭鉱業互助会、山九運輸、大谷炭鉱、戸畑魚市場などを興すなど、地域振興に大いに寄与した。晩年の吉田磯吉は健康がすぐれず、何度も病に倒れた。最終的に急性虫様突起炎穿孔、及び肺炎で亡くなった。70歳だった。
■吉田磯吉の葬儀
吉田磯吉の葬儀は、吉田磯吉の養子であり、後に若松市長も務め、プロテスタント教会の牧師でもあった敬太郎(1899〜1988)によると、「どえらい葬式」だったという。本来は亡くなった2〜3日後に出すつもりでいたのだが、「自分が行くまで葬式を出すな」という大量の電報が届いていた。敬太郎が「それは困る」と返信すると、「お前だけの親父じゃない」と、全国各地、果ては監獄の中からすら、返事が来る。その結果、荼毘に伏されてから葬儀が行われるまで1週間かかったという。
浜町小学校(現・若松中央小学校)の校庭を「民政党福岡県支部葬」の葬儀会場とし、その準備のため、若松にあった遊郭の12軒を全て借り切り、作業に関わる人々を宿泊させた。葬儀当日には、遠方からの会葬者と、吉田磯吉が檀徒であった若松の西念寺(さいねんじ)のみならず、京都の本山・西本願寺からわざわざ訪れた、総勢70人余りの僧侶たちが泊まることになった。葬儀の日は霰が舞う寒い日だったものの、会葬者は、当時の若松市の総世帯数約13500世帯を超える2万人。その葬列は、2キロにも及んだ。しかも詰めかける会葬者のために若松駅はごった返し、臨時で筑豊線と鹿児島本線に二等車を連結運転するほどでもあった。その中には、地元市議、県議はもちろんのこと、元首相の若槻礼次郎、民政党総裁の町田忠治。更に在郷軍人分会会員、吉田磯吉によって若松に結成されていた消防組員、少年団、愛国婦人会会員、西念寺婦人会、若松見番の芸妓たちなどが訪れた。市内の商店は吉田磯吉への哀悼の意を表し、臨時休業した。また、霊前に供えられた清酒20樽、供米は1200俵、服役中の囚人からのものを含む弔電は1450通、弔旗・提灯・放鳥・盛物は1000以上。届けられた花環は1000余対…「大親分磯吉」は、警察・市民総出で見送られたのである。