歴代総理の胆力「佐藤栄作」(1)佐藤の異名でもあった「黙々栄作」 (1/2ページ)
先頃、安倍晋三総理に抜かれるまで、総理としての在任期間7年8カ月のレコード・ホルダーが佐藤栄作であった。
佐藤は前任の池田勇人とともに、戦後政界の「ドン」的存在だった吉田茂元総理の、いわゆる保守本流を自任する政治家の集まりである「吉田学校」の優等生であった。池田はガンの病魔に冒され、再起が難しい中で、後継にこの佐藤を指名したということだった。
佐藤の「胆力」、リーダーシップの根源は、佐藤の異名でもあった「黙々栄作」という言葉に表れている。すなわち、政権発足から半年余が過ぎた頃の記者会見での前掲の「人間は口は一つ、‥‥」にあるように、まず自分が乗り出すのではなく、相手の話、主張に耳を貸し、そのうえで判断、自ら動くという徹底した「待ちの政治」が真髄であった。また、人の話を聞くことで情報も多く集まり、一方で「早耳の栄作」との異名もまた持っていた。
佐藤は昭和39(1964)年11月、政権を担うと、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとっての戦後は終わらないと承知している」と、「沖縄返還」を自らの政権が目指す戦後の懸案処理であると高く掲げた。それからじつに7年余をかけ、時期の到来を待ったのである。
さて、7年8カ月に及んだ佐藤政権は第3次内閣まであったが、「待ちの政治」が結実を見せ始めるのは、昭和44年半ばの第2次内閣の後半からであった。つまり、政権発足からの3年余は、まずは、じっくり政策推進のための政権基盤づくりに充て、態勢が固まったところで、いよいよミコシを上げたということであった。
もっとも、他の政策はともかく、「沖縄返還」についてだけは、政権発足から1年足らずの間に、すでに具体的な“アヒルの水かき”を始めていた。時に佐藤の「名秘書官」とも言われた楠田実が先頭に立ち、優秀な若手官僚、新聞記者、あるいは大学教授などをピックアップ、佐藤のSの頭文字をつけた「Sオペレーション」なる情報交換の場をつくっていたのだった。
結局、「沖縄返還」は次のような経緯をたどりながら、昭和47(1972)年5月15日に施政権ともどもの返還となった。
昭和42年秋、訪米した佐藤はジョンソン大統領との間で、「両3年以内」の返還時期を決定する。