田中角栄「怒涛の戦後史」(17)元社会党副委員長・三宅正一(下) (2/3ページ)

週刊実話

田中は、恬淡として、三宅さんが亡くなるまでそれをやっていた」

 その三宅は、昭和57年5月、死去したが、ついぞ田中による送金の事実を知らずに亡くなったとされている。しかし、こうした話はいずれどこかで漏れる。やがて、社会党支持者の知るところにもなったようであった。

★「ひけらかさない男」

 三宅の死後から間もなく、田中はロッキード事件一審の裁判で有罪判決(懲役4年、追徴金5億円)を受け、昭和58年12月、7年前のロッキード事件逮捕直後の総選挙に優るとも劣らない苦しい選挙に立ち向かうことになった。

 しかし、田中はこの大苦境の総選挙で、なんと22万票という“お化け票”を獲得、なんとかメンツを保つことができた。選挙後、前出の「越山会」古参幹部が、次のように言ったものである。

「この頃には、三宅さんへの田中からの援助の話が漏れ、社会党支持者の間でも知られることになった。一方で、田中の地元に対する政治的目線が、社会党のそれと大きく変わらないことはすでに知られていた。結果、田中に相当な数の社会党支持票が流れた形になったのです」

 こうした田中の“ひけらかさない”資金援助話は、この三宅に限らずまだある。

 田中が、自民党幹事長の頃の話である。当時、石井(光次郞)派に、長野県出身で参院全国区から再選を目指していた青木一男という議員がいた。青木は高潔、一徹な男だけに、選挙資金には窮々としていた。石井派は、田中には批判的派閥である。その青木と同郷で、のちに首相になる羽田孜が、まだ陣笠代議士だった頃、電話で田中になんとか支援を願えないかと頼んでみたことがあった。

 羽田が「やがて田中先生が総裁選に出ても、石井派だから支持してくれるかどうかは分からないが、選挙資金はまったく底をついているようなんです」と言った途端、電話口でカミナリが落ちたのだった。「バカ者ッ。青木は自民党の宝のような男だ。メシ代もないようじゃしょうがない。青木は落とせん」と。

 田中はすぐ羽田を呼び寄せ、200万円入りの封筒を渡すと言った。「とにかく、これを青木に届けろ。ただし、あの青木のことだから田中からのカネだとは、一切口にしてはならん。おまえがつくったカネだと言っておけ」と。

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