歴代総理の胆力「三木武夫」(3)睦子夫人の存在が「駄々っ子な三木」を支えた (1/2ページ)
「睦子が男として生まれていたら、間違いなく三木より先に総理大臣になっていただろう」という声は、後年、三木武夫を知る政財界の中で定着していた。
「昭和電工」を創業、「森コンツェルン」の総帥にして経済界の一翼を担った森矗昶(のぶてる)の二女で三木の妻だった睦子は、それほどの「女丈夫」として聞こえていた。
筆者は若い頃、何度か東京・渋谷の三木邸に取材に赴いていたが、睦子夫人とも話をする機会もあった。言葉尻はおだやかだが、その底に信念の強さをいやというほど窺わせていたのは、毎度だった記憶がある。
一方で、三木は徳島県の中農の息子で、自ら「子供の頃は甘やかされて育った」と口にしたように、青春時代もノビノビと過ごし、正義感、反骨精神は強かったが、言うなら「駄々っ子」でもあった。
明治大学卒業後も就職することなく、親からもらった当時の5000円(現在の500万円程に相当)で悠々と欧米を遊学、国際連盟の軍縮会議を傍聴して感激、ここで「男の仕事は政治である」と心に誓ったものであった。帰国すると、じつに30歳で学生服のまま衆院選に立候補するといった“異色”、無所属で初当選したものだった。
以後の人生一切政治以外の仕事に就いたことはなく、まさに後年の三木への言葉となった「議会の子」そのものだったのである。ためか、世間知らずの「駄々っ子」ぶりは、私生活でも多分に窺うことができた。関係者の語るそうしたエピソードは、次の如くである。
「三木の好物は殻付きの落花生とミカンだった。食べ始めると、落花生は殻といわず皮といわず落としまくる。片づけるということを知らないのだった。ために、ズボンの膝あたりはいつもゴミだらけになっていた。
ミカンも同様で、放っておけば一度に10個、小粒のものなら20個くらいはペロリとやってしまう。むいた皮はほったらかし、加えて口に入れたものは片っ端からペーッとやるから、テーブルの上はいつも戦場の如し」
「チョッキのボタンは段違いにかけることがしばしばだった。