一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【一】 (2/5ページ)

Japaaan

忠義ゆえの裏切りが裏目に……

時は戦国末期、この吉川家はかつて中国地方に覇を唱えた戦国大名・毛利元就(もうり もとなり)が、次男・元春(もとはる)を養子に送り込み、三男・隆景(たかかげ)を送り込んだ小早川(こばやかわ)家と共に毛利家(嫡男・隆元-たかもと)を支える「毛利両川(もうりりょうせん)」体制の一翼として重要な位置を占めた家柄でした。

しかし、関ヶ原の戦い(慶長五1600年)において石田三成(いしだ みつなり)率いる西軍に属した吉川広家(ひろいえ)が、東軍の大将である徳川家康(とくがわ いえやす)と密約を交わします。

関ヶ原の決戦に臨む徳川勢。もし毛利軍が動いていたら、東軍に勝ち目はなかった。

「(名目上)西軍の総大将である毛利家は合戦に参加させない代わり、戦後に所領の維持を安堵(あんど。保証)して欲しい

密約を了承し、毛利家の大軍が動かなかったお陰で、不利な戦況を切り抜けられた家康は、両川のもう一翼であった小早川秀秋(ひであき)の東軍寝返りもあって、見事に勝利を収めることが出来ました。

家康の勝利に大きく貢献した「毛利両川」三家はこれで安泰……かと思いきや、家康は実にあっさりと裏切ってくれやがったのです。

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