一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【一】 (4/5ページ)

Japaaan

また、人材育成の要を感じて弘化四1847年に岩国領の直営学校・養老館(ようろうかん)を創設。子弟たちに文武両道を教えると共に、入学や進級にテストを実施する考試制度を導入。身分や家柄にとらわれない実力主義の普及によって、後に多くの志士を輩出しています。

もちろん自身も日々研鑽して岩国治政に手腕を発揮する生活の中で、正室に順子(木下利愛の娘)を迎えますが、子供が生まれなかったため、側室に井上圓治の娘(本名は不明)を迎えました。

それから安政二1855年8月26日に長男・芳之助(よしのすけ。後の吉川経健)、同六1860年12月24日には三男・重吉(ちょうきち)を授かっています(次男は早世)が、重吉は4歳になった文久三1863年、主君・毛利敬親(もうり たかちか)の養子という名目で人質に出されています。

黒船来航の対応に追われ、沿岸警備を固める武士たち。東洲勝月「米船渡来旧諸藩士固之図」より。

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