一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【一】 (3/5ページ)

Japaaan

「名目上とは言え、西軍の大将である毛利家を赦す訳には行かぬ……確かに所領を安堵するとは申したが、それは吉川家のみであって、毛利など知らぬ

そんな理不尽な……といくら憤ったところで徳川の勝利が確定的となった以上、もはや後の祭り。広家は家康の「古狸」ぶりを痛感させられたのでした。

「お待ち下され!それがしの所領を分割してでも、どうか毛利家の存続だけはお許しを……っ!」

毛利家を思えばこそ、次世代のリーダーと見込んだ家康に「貸し」を作ろうと密約したのに……その忠義が裏目に出てしまった広家は必死に懇願。自分が裏切りの恩賞として得る筈だった領地を、毛利家に献上することを許されます。

それでも一説には実質200万石を超えるとも言われた中国地方の覇者が、約1/7の約30万石まで減封(領地削減)されたとあって、毛利家は窮乏生活を強いられることになります。

主君を想うが故に、家康と交わした密約が裏目に……(吉川広家肖像)。

以来、吉川家は代々毛利家に負い目を感じながら、どれほど冷遇されようとも懸命必死に奉公してきたのでした(※ちなみに、小早川家は秀秋の急死によって無嗣改易=後継ぎがいなかったため御家断絶、領地も全没収されています)。

毛利家との融和協調、人材育成に黒船来航

……そんな広家から12代目の岩国領主となった経幹は、とかく毛利宗家との融和協調に努め、一族を挙げて忠勤に励みました。

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