田中角栄「怒涛の戦後史」(21)元防衛大臣・田中直紀(下) (1/3ページ)

週刊実話

 昭和44(1969)年春、田中角栄の一人娘・真紀子と鈴木直人元衆院議員の三男・直紀は、東京・赤坂のホテルオークラで、日本鋼管(のちのNKK)社長の赤坂武夫妻が仲人となり挙式、結婚披露宴を行った。

 田中はこのときの挨拶で、この人がと思われるほど、人前はばからずの号泣をした。
「今日から鈴木君(新郎)は、うちの息子だ。私にとっては、娘より可愛い息子だ…」

 しゃべっている最中も、絶句に次ぐ絶句で、宴がハネたあと、ある自民党の実力者から、こう冷やかされたものだった。
「君、そんなことでは政治家は務まらんなぁ」

 しかし、この結婚は、じつは挙式の30分前まで難航に難航を重ねていた。理由は、鈴木直紀が田中姓となり、婿養子となるか否かであった。田中は、真紀子が嫁に行ってしまうと、田中の姓を名乗り田中家を継承していく人物がいなくなることから、最後まで婿養子に固執していた。

 対して、鈴木家も直紀の母親が、亡夫の跡を継いでやがては鈴木姓で〈福島3区〉(旧中選挙区制)から衆院選に出てほしいという思いが強かった。ために、婿養子には断固ノーだったのである。当の日本鋼管勤務の直紀も、赤坂社長から「向こうは娘一人だ。婿養子を考えてやれ」と攻められ、当惑していた。

 一方、真紀子はといえば、学生時代から友人に「私は見合い結婚や婿養子は絶対イヤ。嫁に行くんだ」と語っていたくらいで、直紀の婿養子には断固ノー、父・角栄に対して「私は嫁に行き鈴木姓になる」と譲らなかった。性格は潔癖、こうと言い出したらテコでも動かぬ真紀子の性格を知る田中は、さすがに頭を抱えたものだった。

 やがて披露宴の直前、ついに田中は直紀の母親に頭を下げ、一方で強引に婿養子を改めて申し入れた。そのとき、直紀の母親は「これをのんでくれるなら、やむを得ない」として、三つの条件を出したのだった。

 一、来たるべき日、直紀を亡き父親の選挙区から衆院選に出馬させること。二、田中家の全財産は、将来、直紀が継ぐこと。三、以上について披露宴で公表し、約束すること。

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