台東区浅草の観光名所である浅草寺の「西仏板碑」について調べてみた (2/5ページ)

心に残る家族葬



■保全や修復を重ねてきた浅草寺の西仏板碑


この板碑で大きく目立つ種子は、釈迦如来を表す「バク」で、その下には肉眼では判別しがたいが、蓮台に立つ地蔵菩薩と蓮華を活けた花瓶、右側には童子像、下部には、具体的にどんな人物だったのかはわかっていないが、造立者の僧侶「西仏」による、家族の今生と来世における幸福を願う文字が記されている。そしてこの板碑は、寛保2(1742)年に暴風雨によって3つに折れてしまった。最上部は現在位置よりも雷門側に近い伝法(でんぽう)院内の稲荷社のそばに置かれていたというが、現存していない。しかし文化11(1814)年に、10人の有志が2本の側柱を立て、今で言う「保全」「修復」を行った。そのおかげで、大正12(1923)年の関東大震災や、第2次世界大戦末期の昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲で、浅草寺は甚大な被害を被ったが、この板碑は倒壊することなく、今日もその姿を保ったままでいるのだ。

■浅草寺の歴史は古い

浅草寺は徳川家康が幕府を開いてからの「江戸」に始まり、「明治」「大正」「昭和」…の観光地のイメージがあまりにも強く、古都・京都や奈良の名刹と比べたら、「新しい」寺だと思われがちだが、実はそうではない。



■浅草寺の始まりとは?

浅草寺を含む浅草一帯は現在とは大きく異なり、大昔は湿地帯の上にできた砂州(さす)のような場所だったようだが、寺伝の『浅草寺縁起』によると、推古天皇36(628)年3月18日の早朝、漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が、江戸浦(現・隅田川)で魚を獲っていたところ、一体の仏像が投網(とあみ)の中にかかった。それは純金無垢の観音像で、1寸8分(約5.4センチ)と、とても小さなものだった。仏像のことを知らなかった2人はそれを水中に投じ、再び網を打った。しかし再び、仏像が網にかかるだけで、魚は採れない。
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