台東区浅草の観光名所である浅草寺の「西仏板碑」について調べてみた (3/5ページ)

心に残る家族葬

仕方なく2人は仏像を持ち帰り、地域の郷司(ごうじ)・土師中知(はじのなかとも)に相談したところ、土師は「これはとてもありがたい聖観世音菩薩だ!」と言って、それを受け取った。更に土師は出家し、観音様に帰依した。そして翌日19日の早朝に、里の童子たちがアカギの草で作った庵に、その仏像を安置することにした。以上がそもそもの、浅草寺の始まりだった。

■浅草寺は今も昔もランドマークであり続けてきた

しかも現在同様、隅田川沿いの浅草一帯は、房州(現・千葉県南部)・奥州(現・福島県、宮城県、岩手県、青森県)方面を往来するための、重要な交通の要衝であり続けてきたことから、古代から多くの人々が生活を営んできた地域だった。それゆえ奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代…と、江戸時代よりもはるか前から、わざわざ遠くから多くの人々が訪ねてくる、聖観音菩薩信仰を中心とした「ランドマーク」であり続けていたのだ。

■歴史書に記されている浅草寺の存在感

「西仏板碑」造立前後の歴史を概観すると、例えば鎌倉時代中後期には、後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう,1258〜?)の自伝とされる『とはずがたり』(1313年頃成立か)の中で、尼となった二条が正応2(1289)年に浅草寺を訪れ、観音様のことを「霊仏と申すもゆかしくて参る」と書き記している。そして室町時代になってからの正平7(南朝)/観応3(北朝)(1352)年、初代将軍・足利尊氏(1305〜1358)が浅草寺を参詣に訪れている。彼らは言うまでもなく「都人」で、遠路はるばる、わざわざ東国にやってきたのだ。そこで浅草寺参詣を行ったということは、浅草寺そのもの、そして祀られている聖観音菩薩が参詣するに値する霊験あらたかな「霊仏」だと当時の人々から認識されていたことを証している。

確かに平安後期以降、関東武士が台頭し始めた当時の英雄のひとり、源義家(1039〜1106)が延久2(1070)年に、奥州討伐の武運を祈った。そしてその末裔である義朝(1123〜1160)は、承暦3(1079)年に観音堂が炎上した際、本尊は自ら火炎を逃れ、近くの榎の梢に避難したという故事を聞き、永治2(1142)年または久安2(1146)年にその榎で観音像を彫り、奉納した。

「台東区浅草の観光名所である浅草寺の「西仏板碑」について調べてみた」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る