長嶋茂雄と王貞治…愛と憎しみのライバル秘話 (4/5ページ)
本所中は校庭がコンクリートで、十分な練習ができなかったため、王は地元の高校生が作った「厩四ケープハーツ」に入り、草野球に興じていた。
隅田公園で試合をしていると、後に王と一本足打法を生み出す荒川博が偶然通りかかり、声をかけてきた。「君はギッチョ(左利き)なんだから、左で打ったほうがいいよ」
王は生まれつき左利きだったが、父親の仕福さんから、「箸と鉛筆は右手で使わなければダメだ」と、厳しくしつけられていた。そのため、当時は左投げ右打ちだった。荒川に言われたので、王は次の打席は左で打ってみた。すると見事な二塁打。これに気をよくした王は、以来、左打ちとなる。記憶力が抜群にいい王は、「昭和29年11月30日だったと思う」と、荒川に出会った日付を鮮明に覚えているという。
野球少年だった王だが、父親は「長男の鉄城は医者に、次男の貞治は電気技師にする」と決めていた。ところが、名門の都立墨田川高校の受験に失敗してしまう。そこで、推薦枠で高校野球の名門、早稲田実業高校に入学したのだ。早実に王を推薦したのは、日本橋人形町でスポーツ用品店を経営していたH氏。「(推薦を決定するお披露目会)では、ピッチングは披露したが、バッティングしろとは言われなかった」とは、王の弁。王のピッチングを見て惚れ込んだのは、早実のOBで朝日新聞の運動部記者だった久保田高行だった。
「王は飛び抜けていた。この子がいれば、全国制覇できると思ったよ」と、王を徹底マーク。墨田川高校受験に失敗したと聞くや、すぐに獲得に動いたという。王は早実から接触があるまで、本所高校に進学する予定だった。
■早実に入学し、甲子園で活躍
早実に入学するや、即レギュラーに抜擢された王。投手としての才能を評価されていたが、まずは外野手にされた。5番打者として、のちにプロ入りする醍醐猛夫(毎日)、徳武定之(早大-国鉄)の後を打った。1年生で強豪校のクリーンアップを打つことは前代未聞だった。夏には早々に、甲子園の土を踏んでいる。
1年秋からの新チームでは、“エースで4番”を任された。