徳川家康の外交顧問は“青い目の侍”! W・アダムス「三浦按針の生涯」 (1/3ページ)
幕末以前の日本史に登場する有名な西洋人といえば、キリスト教をもたらしたスペイン人のフランシスコ・ザビエルに加え、長崎・出島のオランダ商館医となったドイツ人医師のシーボルトが思い浮かぶ。だが、イギリス人で初めて日本を訪れたウイリアム・アダムスの存在がなければ、シーボルトでさえも歴史にここまでその名を残すことはなかったかもしれない。
アダムスはロンドン郊外のジリンガム生まれ。一二歳で故郷を離れ、テムズ河畔のライムハウスで船大工に弟子入りすると、次第にその操縦に興味を抱き、船乗りとなった。
一五九八年六月には妻子を残し、当時、インド貿易を始めていたオランダの船に乗り込み、ロッテルダムを出港。船団の目的は太平洋上に新しい島々を見つけ、かつ日本と交易することだったが、出港時に五隻だった船は南米大陸南端のマゼラン海峡を越える頃には、暴風に見舞われた影響からアダムスが航海長を務めるリーフデ号だけになった。
結果、乗組員二四人が生き残ったが、一六〇〇年四月に日本の豊後臼杵沖に漂着したとき、アダムスと六名しか満足に立つことができず、彼の手紙によると、「我々がこの地にいる間、皇帝が我々のことを伝え聞き、直ちに五隻の櫓帆船を送り、私を宮廷へ連れて行きました」という。
このとき、豊臣政権の長崎奉行だった肥前唐津城主の寺沢広高は大坂に報告してリーフデ号を廻航。こうして航海長のアダムスが病床の船長に代わり、大坂城で“皇帝”に謁見することになった。
当時、大坂城の主は豊臣秀頼だったが、ここでいう皇帝は豊臣政権五大老筆頭の家康を指す。その相手が仮にアダムスでなければ、その後の歴史は変わっていたかもしれない。
すでに日本をポルトガル人とスペイン人が訪れており、いずれもカトリックの国である彼ら旧教徒は、新教徒(プロテスタント)のイギリス人とオランダ人を警戒。アダムスによれば、ポルトガル人らが家康に、「(彼らは)どこの国民をも襲う強盗か泥棒だ」と告げ口していたという。
しかも、リーフデ号には航海中、戦争状態にあるポルトガルやスペイン側に拿捕されないよう、大砲や武器(五〇〇挺の火縄銃など)と弾薬が積まれていた。