徳川家康の外交顧問は“青い目の侍”! W・アダムス「三浦按針の生涯」 (2/3ページ)
アダムスは実際、いつ磔つけにされるかと不安な日々を過ごしたが、家康に謁見した際に二国との戦争について質され、ポルトガル語の通訳を通じて理解をしてもらえるように語り終えると、家康が「私の話を聞いて喜んだようでした」という。つまり、家康はポルトガル人らの告げ口を信用せずにアダムスの話を信じ、彼をいたく気に入ったのだ。事実、旧教徒側の史料もアダムスを「頑固な異教徒」で「聖書に対する理解と解釈は誤っている」と批判する反面、「頭脳明晰」と分析。
結局、リーフデ号は江戸に廻航する途中で使い物にならなくなり、乗組員は年金を支給されて日本にとどまり、その後、多くが来航する貿易船などに乗って去る中、家康はアダムスだけは手放さなかった。
そして、アダムスは家康に頻繁に呼ばれるようになり、数学や幾何学を講義するだけでなく、船大工の経験があることから西洋式の船の建造を命じられて完成させた。
アダムスはこうして家康の信頼を得て、三浦郡逸見(横須賀市)に領地を与えられ、手紙に「イギリスの貴族制のように住居と八十ないし九十名の農民を与えられた」と書いた通り、外交顧問に相応しい旗本の待遇を得た。
また、彼はこの頃、日本人妻を娶り、やがて二児を設け、通説では伝馬役人の馬込勘解由の娘・お雪とされるが、その名も素性も明治の文献に突如として記載され、典拠は不明のまま。
だが、アダムスが江戸の日本橋にも屋敷をもらい、領地のある三浦郡と水先案内という意味を合わせ、三浦按針という日本名を名乗るようになったことは事実だ。
■ヨーロッパの国々との国交に大きく尽力した
彼はその後も決して帰国を諦めたわけではなかった一方で、日本人として生きる覚悟を決めたらしく、のちにイギリス商館の開設に尽力。
イギリス東インド会社のセーリスというイギリス人が、クローヴ号を率いて平戸に来航した際、その応対に現れた按針を見て、「(按針は)日本に対して称賛と愛情を抱くあまり、日本人になりきってしまったように我々の目には映った」という感想を抱いた通り、彼は三浦按針というサムライになっていたのだ。