泣く子も黙る「民権ばあさん」!日本初の女性参政権を実現した民権家・楠瀬喜多 (5/6ページ)

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警官の演説中止に激高する聴衆。「絵入自由新聞」明治二十一1888年3月14日付より。

その演説の勇ましさは男性にも劣らないもので、警官の「弁士中止!(※)」にも怯むことなく抗論し、人々の民権意識を大いに昂揚せしめたそうです。

(※)当時、政治系の演説会は必ず警官が監視しており、当局にとって不都合な発言があった場合など、その中止を命じる権限を持っていました。

また、自身が活動するだけではなく、若き日の河野広中(こうの ひろなか。衆議院議長)や頭山満(とうやま みつる。アジア主義運動家)など多くの民権家を世話する様子が肝っ玉母ちゃんみたいで、いつしか「民権ばあさん」とリスペクトされたのでした。

そんな喜多は晩年まで精力的に活動、やがて大正デモクラシーの機運が高まる中、大正九1920年10月18日、85歳の生涯に幕を下ろしました。

墓所は筆山(現:高知県高知市)のふもとにあり、夫の楠瀬実に寄り添うように建てられています。施主はかつて世話になった頭山満。彼女の志は、若き志士たちへと受け継がれていったのでした。

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