歴代総理の胆力「羽田孜」(2)田中角栄いわく「ワシが育てる」 (1/2ページ)

アサ芸プラス

歴代総理の胆力「羽田孜」(2)田中角栄いわく「ワシが育てる」

 羽田は「二世議員」ながら、当初は政治の世界に入る気はなかった。成城大学を卒業後「小田急バス」に入り、本社の観光課係長などを経て、企画調査室課長で退職した。

 この間の10年のサラリーマン生活で、羽田が企画した文学ゆかりの地を巡る観光バスによる「文学散歩ツアー」は、同社の“ヒット企画”となっている。こうしたなかで、のちに政界に入っても変わらなかった「庶民感覚」が育まれたと言ってよかったようだ。

 政界入りは、代議士だった父親の病気による引退によるものだった。羽田は望まなかったものの、地盤を継がざるを得ない政治家の家に生まれた宿命であった。

 昭和44(1969)年12月の総選挙に初出馬、当選を飾ると、自民党佐藤(栄作)派に入った。このときの選挙を仕切ったのが、佐藤派幹部で幹事長の田中角栄だった。時に、小沢一郎も同期当選をした。当選してきた二人に、田中は言った。

「この二人は、ワシが育てる」

 佐藤派のあとは、やがて田中角栄が継ぐことになるが、羽田は一貫して「農政」を勉強した。生産者、消費者の双方をにらみながらのバランス感覚にすぐれ、「羽田農政」とし自民党内の一角を占めた。第2次中曽根(康弘)内閣、引き続いての竹下(登)内閣で農水相を務め、その後も蔵相、外相のポストも踏んでいる。また、竹下派では、小渕恵三、橋本龍太郎、小沢一郎、梶山静六、渡部恒三、奥田敬和とともに「七奉行」と言われた“期待の星”でもあった。

 二世代議士が総理になったのは、その時点で羽田は芦田均、鳩山一郎、宮澤喜一に続く4人目だったが、以降、こうした“傾向”が顕著となっている。

 しかし、そうした二世トップリーダーに共通するのは、部下からの「畏怖」が物足りず、政権が苦境に立ったときの「ねばり」がないということもある。そのあたりが、いわゆる「叩き上げ」の議員と大きく違う点である。「叩き上げ」は、時には危ない橋を渡りながら手に入れたものだけに、ねばりにねばるのが常なのだ。

 羽田が小沢らとともに竹下派を割り、自民党を離脱したとき、同派領袖の竹下登はこう嘆いたのだった。

「歴代総理の胆力「羽田孜」(2)田中角栄いわく「ワシが育てる」」のページです。デイリーニュースオンラインは、内閣総理大臣羽田孜小林吉弥小沢一郎田中角栄社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧