伊達政宗と繰り広げた骨肉の争い!戦国時代の女城主・阿南姫の生涯【3/4】 (2/5ページ)

盛隆によって共に栄えた二階堂氏(三ツ盛亀甲花菱紋)と蘆名氏(三ツ引両)。
元亀元1570年に生まれた次男・二階堂行親(ゆきちか)もすくすくと成長しており、将来を楽しみにしていたのですが、天正九1581年に夫・盛義の急死を皮切りに、行親、盛隆、そして盛隆の嫡男・蘆名亀王丸(かめおうまる。3歳)が相次いで亡くなります。
出家して大乗院(だいじょういん)と称した阿南姫(※便宜上、以降も阿南姫で統一)ですが、夫や息子たちの死を悲しみ、菩提を弔う暇もなく、女城主として所領の切り盛りに追われる日々を送る中、後継ぎのいなくなった蘆名家の後継者争いに巻き込まれていくのでした……。
蘆名家の後継者争いで、実家と訣別さて、蘆名家の後継者には、2人の候補者が名乗りを上げていました。
その1人目は、蘆名家の盟友である常陸国(現:茨城県)の戦国大名・佐竹義重(さたけ よししげ)の次男・佐竹義広(よしひろ)。大乗院にとって甥に当たる人物です。
もう1人は、大乗院の実家を継いでいた伊達政宗(だて まさむね。晴宗の孫)の弟・伊達小次郎(こじろう)。こちらも大乗院にとっては甥に当たります。