伊達政宗と繰り広げた骨肉の争い!戦国時代の女城主・阿南姫の生涯【3/4】 (4/5ページ)

Japaaan

後世「郡山合戦(こおりやまがっせん)」と呼ばれるこの戦さでは、阿南姫も盟友・相馬義胤(そうま よしたね)ともども蘆名方に援軍を派遣。

更には出羽国(現:山形県)から最上義光(もがみ よしあき)の援軍も得て、南北から政宗を追い詰めていったものの、最終的には逆転されて政宗有利の状態となり、一応の和睦を結びます。

しかしここまで来たら、もう後には退けません。伊達が滅ぶか、さもなくば蘆名が滅ぶか。生き残りを賭けた最終決戦が迫っていました。

蘆名家の滅亡、迫りくる伊達の大軍

「そんな、まさか……」

阿南姫の守る須賀川城に届いたのは、天正十七1589年6月5日に摺上原(すりあげはら。現:福島県磐梯町、猪苗代町)の合戦で、蘆名義広は伊達政宗に完全敗北。義広は所領を放棄し、生家の父・佐竹義重を頼って常陸国へ落ち延びた(実質的な蘆名家の滅亡)との報せでした。

「これで、蘆名もおしまいじゃ……」

「尼御台様!伊達の軍勢がこちらへ迫っておりまする!」

「もはや勝機もございませぬ!どうか、降伏のご決断を!」

気づけば須賀川城を包囲していた伊達の大軍……見ればその中には、かつて蘆名の禄を食(は)んだ≒今は裏切った者たちも少なくありません。

「……あの者たちは……」

「今や奥州の趨勢は、伊達に傾いております。

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