伊達政宗と繰り広げた骨肉の争い!戦国時代の女城主・阿南姫の生涯【3/4】 (3/5ページ)
南の佐竹氏と組むのか、あるいは北の伊達氏と組むのか……この重大な決断を前に、蘆名家中は大いに紛糾しました。
大乗院とすれば、実家の伊達氏により近い小次郎を選びたかったところかも知れませんが、それを制したのが兄・岩城親隆(いわき ちかたか)でした。
「伊達は、こと政宗は奥州制服の野望を秘めており、油断がならん。ここは義広殿を蘆名家の跡取りに推すべきじゃ」
「……はい」
かくして阿南姫は実家と訣別し、岩城・佐竹サイドに与して義広を推した結果、天正十五1587年3月に家督を継承、蘆名義広と称しました。
明けて天正十六1588年2月、政宗が伊達家から離反しつつあった大崎(おおさき)氏の内紛に乗じて軍事介入を図るも撃退されてしまいます(大崎合戦)。これを伊達つぶしの好機と見た義広は、大内備前守定綱(おおうち びぜんのかみ さだつな)に兵4,000を預けて伊達領へと北上させます。
緒戦は快進撃を続けた蘆名軍でしたが、新参者だったために冷遇されていた定綱は伊達成実(しげざね。政宗の従弟)に調略され、伊達に寝返ってしまいます。