知って楽しい鎌倉の歴史!駅からスグの史跡めぐり~頼朝公と西行法師の出逢い~ (2/6ページ)
1917年3月、鎌倉青年会がこれを建てる
治承四1180年8月に伊豆半島で挙兵し、ピンチに陥りながらも紆余曲折を経て鎌倉に本拠地を構えた源頼朝(みなもとの よりとも)公は、御家人同士のもめ事を、一件々々自らの御所に招いて聞いていたそうです。
「佐殿(すけどの、頼朝公の通称)、それがしの言い分をお聞き下され……!」
「いえ佐殿、こやつは嘘を申しておりますれば、理はそれがしにこそ……!」
「佐殿!」「佐殿!」「佐殿!」……なにぶん荒くれ者ぞろいの坂東武者をまとめ上げるのは大変な作業で、頼朝公ほどのカリスマなくしては、仲裁もままならなかったことでしょう。
しかし、頼朝公を慕って鎌倉武士団がどんどん膨れ上がるにつれて、次第にもめ事の内容も複雑な案件が増え、御家人たちの正当性アピールも次第にエスカレートして行きます。
その代表例の一つが、武蔵国(現:埼玉県)の住人・熊谷次郎直実(くまがいの じろうなおざね)と、そのおじである久下権守直光(くげのごんのかみ なおみつ)の所領争い。
建久三1192年11月25日、生来武骨な直実は、処世に長けて口も巧い直光に反論できず、その憤りから自分の髻(もとどり。髪)を断ち切って蓄電(ちくでん。逃走)、そのまま出家してしまいます。