知って楽しい鎌倉の歴史!駅からスグの史跡めぐり~頼朝公と西行法師の出逢い~ (3/6ページ)

Japaaan

※一説によると、直実の出家は一ノ谷の合戦(寿永三1184年2月7日)で自分の息子と同年代の平敦盛(たいらの あつもり)を討ったことが発心の動機ともされています。

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この一件でほとほとうんざりした頼朝公は、以後は訴訟を御所で取り扱うのを止め、名越(鎌倉市東部)にあった三善康信(みよし やすのぶ)の館で取りさばくようにしたそうです。

心労のタネを我が家(御所)に持ち込ませたくなかったのでしょうが、三善康信としてみれば、さぞや迷惑だったことでしょう(それでも黙って受け入れる辺りが、「幕府の良心?」たる康信の度量と言えます)。

そして建久十1199年1月13日に頼朝公が亡くなり、改元した正治元1199年4月に現在地に問注所が移転されると、それまでの将軍による独断から「鎌倉殿の13人」が合議して判決を下すシステムに移行しました。

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