徳川御三家筆頭が倒幕に走った理由「天下りポスト」尾張藩主の恨み (3/3ページ)

日刊大衆

■尾張藩の説得によって東海道は新政府方に!

 それゆえ、慶勝の決断は佐幕派に裏切りと見なされたようで、その従兄弟である慶喜は実際、参謀の西郷らの言いなりになったという意味で、「(薩摩)芋に酔ひ候」と皮肉ったほどだ。

 当然、尾張藩が七代藩主の宗春以来、幕府に対する不満を抱え続けたことも背景にあったとみられるが、慶勝は、内戦で列強諸国に隙を与えないことが最上の策、と考えたとされる。つまり、非戦の論理で、これを裏づけるように当時、鳥取藩主がしたためた書状に慶勝について、「密策の上においての策略謀計も種々御座候」とある。

 その後、幕府が慶応三年(1867)一二月九日、王政復古のクーデターで倒れた。そして、その翌年早々に旧幕府軍が薩長の挑発に乗り、鳥羽伏見(京都市)で敗れると、慶勝は朝廷から「姦徒を誅戮し、諸侯を勤皇へと導け」との命令を受け、名古屋に戻って藩内の佐幕派を粛清。さらに、藩内に勤皇誘引掛を設け、藩士を三河、遠江、駿河、美濃、信濃など諸国に遣わした。

 中でも岡崎は家康の生誕地で、三河は「御譜代」の大名や旗本領ばかり。だが、御三家筆頭の尾張藩の使者が来て時勢を説かれれば、彼らとて従わないわけにはいかない。結果、岡崎藩が新政府支持を表明すると、その他の諸藩も従い、東海道は尾張藩の説得が功を奏し、瞬く間に新政府方となった。

 そして、のちに有栖川宮熾仁親王を大総督とする新政府軍が東海道を下り、結果、江戸開城に繋がる。その地均しを行ったのが尾張藩だったのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

「徳川御三家筆頭が倒幕に走った理由「天下りポスト」尾張藩主の恨み」のページです。デイリーニュースオンラインは、幕府歴史カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る