徳川御三家筆頭が倒幕に走った理由「天下りポスト」尾張藩主の恨み (2/3ページ)

日刊大衆

家斉の一九男で一一代藩主だった斉温の死後、藩士は分家である前述の高須藩から慶勝を迎えることを嘆願したものの、やはり認められず、幕府の“押しつけ養子”が続いた。

 それでも一四代藩主である慶勝の就任が認められ、藩士の念願がようやく叶う。慶勝は高須藩主の次男で、一五代藩主となる弟の茂徳や前述の容保と定敬とともに「高須四兄弟」と呼ばれて藩士の期待を集め、藩祖である義直と同様に尊王の精神が篤い尊王攘夷派。井伊直弼(幕府大老、彦根藩主)が朝廷の許可もなく、日米通商修好条約を結ぶと、前水戸藩主だった徳川斉昭とともに詰問するため、江戸城に押し掛けた。

 慶勝は当然、江戸城の途上日が定められていたことから、この罪を問われて藩主の座を追われたが、井伊直弼が桜田門外の変で水戸浪士らに討たれたことで、復権。弟の茂徳が隠居し、自身の三男だった義宜がわずか六歳で藩主になり、再び藩政の実権を握った。

 一方で、慶勝は一四代将軍である徳川家茂の後見を託されて幕政に参加。幕府が元治元年(1864)七月二四日、蛤御門の変で朝敵となった長州を征討するため、西国の二一藩に出陣を命令し、慶勝は弟の容保らに総督就任を要請された。

 だが、慶勝は幕府から全権委任のお墨つきを得るためか、簡単に首を縦に振らずに徹底的に焦らした。狙いは何か。彼は参謀である薩摩藩士の西郷隆盛らに長州と交渉を進めさせ、戦端を開く前に「幕府に恭順する」との回答を引き出し、追討軍を撤兵させた。

 結果、長州藩は蛤御門の変の首謀者とされた三家老の首を差し出し、幕府に恭順した一派がその後、クーデターによって一掃されて「武力倒幕」の方針で固まった。

 しかし、慶勝が恭順を認めずに、一気に叩き潰していたら、その後の歴史は大きく変わったはず。

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