レジェンドのルーキー時代「長嶋茂雄と王貞治」永遠ライバル愛憎秘話 (3/5ページ)
25日の大毎戦では、通算2244奪三振を記録した剛腕の小野正一から先制ホームラン。この長嶋の打席を見て警戒を強めたのが、国鉄の大エース・金田正一だった。「ゴールデンルーキー恐るべし」――金田の警戒が、長嶋の公式戦初戦での“対金田4打席4三振”につながったのだが、これは別の機会に詳述したい。
長嶋のオープン戦での成績は、19試合で74打数20安打、打率.270、16打点、ホームラン7本というものだった。メディアはこぞって、“ゴールデンルーキー”とはやし立てた。巨人のホーム球場だった後楽園の株価は、1週間で90円から111円に急騰する動きを見せた。後にも先にも、後楽園の株価を押し上げた選手は長嶋だけだという。
■王はジャイアント馬場に空振りも
長嶋に遅れること1年。王の巨人参加は、昭和34年2月2日だった。卒業試験のため、チームから3日遅れでの合流だった。午前11時発の急行「高千穂」で、キャンプ地・宮崎を目指す王の表情は、緊張からか険しかったという。東京駅のホームには、王の家族に加え、早稲田実業高校の宮井勝成監督らが見送りに来ていた。宮崎の旅館では長嶋と同室だったが、王は一晩で大部屋に移されてしまう。
「王のいびきと寝相の悪さで、長嶋が寝つけなかったため」 球団はこう説明したが、真相は違った。「新人は大部屋というのが暗黙のルール。“王だけ特別待遇はおかしい”と、古株からクレームが入ったからです」(巨人OB)
王が後年、折に触れ「僕はイビキがうるさいから、気をつけて(笑)」と言うようになったのは、このときの一件が原因のようだ。
キャンプ初日は雨で練習は中止。地元の高校の体育館を借りて、1時間少々の軽いトレーニングとなった。雨が上がった5日から本格的に練習が始まったが、報知新聞(当時)によると、「王は80本打って、芯に当たったのは4分の1程度」だった。バッティング投手は、黒田能弘と馬場正平が務めていた。