明智光秀が築いた琵琶湖の水城!“豪華壮麗”坂本城に「幻の天守」 (2/3ページ)
こうした中、同年八月末、信長に抵抗する三好三人衆が大坂の野田、福島城を拠点に蜂起。本願寺もその包囲網に加わったことで、信長は大坂から動くことができなくなった。
すると、余力を残していた朝倉と浅井勢はこの隙に乗じ、三万の大軍で南近江の志賀郡に進軍。ここには信長が築いて森可成(森乱丸の父)が城主に就く宇佐山城(大津市)があり、本願寺の挙兵は朝倉、浅井勢と連携した動きで、姉川の合戦後から続く一連の争乱を「志賀の陣」と呼ぶ。
信長は近江の敵を重視し、九月二三日、大坂から撤退することを決めて京に引き揚げ、当時、宿舎にしていた本能寺で夜を明かし、翌二四日にここを発って大津に陣を張った。これで南近江における織田勢と朝倉、浅井勢の形勢は逆転したかに見られたが、敵方が比叡山に逃げ込んでしまった。
当然、信長は彼らを憎んでも憎み切れず、山上に逃げ込んだ両勢力の糧道を断ち、干殺しを計画したが、比叡山延暦寺が朝倉と浅井勢を庇護。結局、将軍義昭の仲裁で双方は和睦したものの、信長の比叡山に対する恨みは残った。
ちなみに、光秀はこのとき、比叡山西麓にある瓜生山の勝軍山城(京都市左京区)に入っている。ここは洛中から距離もさほどなく、光秀は吉田神社(京都市左京区)の神官である吉田兼見を訪ね、今で言うサウナの石風呂を所望したと『兼見卿記』に記されている。光秀が石風呂好きだったことを示す一方で、吉田は後に朝廷のフィクサーと呼ばれることになるだけに、彼を通じて朝倉、浅井勢と和睦交渉に当たっていたのかもしれない。
一方の信長はこうした中、元亀二年(1571)九月に恨みを抱く比叡山を攻めた。いわゆる比叡山焼き討ちである。『信長公記』によると、織田勢は全山をことごとく焼き払い、「僧俗・児童・智者・上人」の別なく、全員の首を刎ね、「数千の屍」を晒すことになったといい、女や子どもも殺した。
むろん、光秀も信長のこの動きに同調していた。彼は焼き討ちの前にまず、「志賀の陣」で討ち死にした森可成に代わって宇佐山城の守将に就いた。
信長が光秀にここで、比叡山麓の土豪(地侍)の懐柔を行わせ、彼はその命令を忠実に実行。