戦国時代の“お茶ブーム”仕掛け人は信長だった!「領地よりも茶器が欲しい」 (1/3ページ)

Asagei Biz

織田信長
織田信長

「すきもの」は、今日では「好事家」「色好み」と理解されているが、もともとは「数寄者」とされ、茶の湯など風流、風雅に寄せる人のことだった。つまり、数寄者は好き者に通じ、女や物欲のオタクにも通じていたのかもしれない。

 戦国武将たちは、武将の教養として茶の湯をたしなみとした。ことに織田信長は、堺出身で豪商の出の今井宗久らを重用して当時の武将たちに茶会を開く権利を褒美として与えたりしていた。歴史家の河合敦氏によれば、

「武将たちのお茶ブームを作ったのは信長ですが、それ以前に宗久や千利休の出身地である堺などの豪商や上級の公家などの間ではすでに茶の湯が大ブームであり、信長は茶道具の収集にも熱心。その価値を高騰させて、戦功のあった者に褒美として茶器を与えたりしてブームを演出した」

 秀吉も京都の聚楽第(じゅらくだい)に茶室を設け利休に茶会を開かせて、密談や政治に利用した。ただ、ド派手な大坂城の黄金の茶室など、およそ利休の求めた「わび茶」「わびさび」をまったく理解しない秀吉だった。そのために、結局2人は合わず、利休は秀吉の逆鱗に触れて切腹させられてしまう。切腹の理由も、秀吉がくぐった大徳寺の門の上に利休の像があった不敬罪や、スパイ活動をしていたなど諸説あるが、一説には、利休が娘・お吟を秀吉に差し出すのを拒んだからとも言われている。アラートMAXである。

 利休が京都を追放される時に、処罰覚悟で船着き場まで見送りに行ったのが、利休の弟子であった古田織部。もともと信長、秀吉に仕える武将だった。2011年にテレビアニメにもなった山田芳裕の「へうげもの」(講談社)は、この古田左介(織部)を主人公にしたマンガ。信長、秀吉ら、戦と同じくらいにお茶や茶道具などに血道を上げた武将たちの滑稽なまでのオタクぶりが描かれていてすこぶるおもしろい作品だ。河合氏が解説する。

「織部は、利休には特にかわいがられて、一緒に温泉旅行へ行くほどの仲でした。茶の湯に目覚めたのは当時としては遅く30代後半で、茶器に関して織部は職人たちに自由に創作させ、気に入ったものを選んだ。

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