戦国時代の“お茶ブーム”仕掛け人は信長だった!「領地よりも茶器が欲しい」 (2/3ページ)
茶碗や茶入れなどは『キズがないのはおもしろくない』と言って、わざと欠けさせて使ったり、掛け軸も切断して2つ以上に仕立て直したというほどユニークな作風だった」
利休の死後、織部は秀吉に茶の湯の指南をすることになるのだが、秀吉に、利休由来の「堺の町人風茶式」を武家好みのものに改革するよう命ぜられたという。
「手水鉢(ちょうずばち)には、50人がかりで運ばなくてはならない大きな石を用いたり、茶碗も大きなサイズで派手なものを好んだりしました。三畳半の茶席に、さらに融通席として一畳を加えた大型の茶室を作ったり、茶碗にしても当時は唐物など外国のものが重宝されましたが、織部はあえて誰でも手に入る美濃焼のものを使ったり、師匠・利休のスタイルを革新していきます」(河合氏)
織部は、大坂夏の陣のあと、豊臣家との内通の嫌疑で、家康に切腹を命じられる。くしくも師匠・利休と同じ運命をたどることになったのだ。
織田信長がお茶にハマッたきっかけは、足利義昭を奉じて上洛した際、豪商や武家から名品の茶器を献上されたことからとされるが、この時、信長に「九十九髪茄子(つくもなす)」という名品の茶入れを献上したのが、松永弾正こと松永久秀だった。
松永久秀は、四国・阿波の三好長慶(みよしながよし)に仕え、三好氏が畿内に勢力を拡大することに貢献した。一方で、山崎の戦いで洞ヶ峠を決め込んだことで知られる筒井順慶や三好三人衆と抗争、敵が籠もっていた東大寺の大仏殿を焼き払った人物。まったくなんてことをする乱暴者だと思いきや、茶人としても評価が高かったというから驚く。信長が上洛した時には、すぐさま臣従(しんじゅう)したものの、その後は信長に何度も逆らったり裏切ったり。最期はみずからの居城・信貴山(しぎさん)城に立て籠もって、信長の「秘蔵の平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜」を渡せば罪を許すという説得を無視。この茶釜だけは渡したくないと、釜と一緒に火薬で城ごと爆死してしまう。茶道具に命を張るとは、現代からみると理解しがたいのだが……数寄者とはそういうものかもしれない。
そんな茶人武将の中でもサイテーな人物として河合氏が挙げるのが、荒木村重だ。
「荒木村重は茶人としても有名でした。