“忠臣蔵”江戸城松の廊下刃傷事件浅野内匠頭「キレた理由は悪口」! (2/3ページ)

日刊大衆

「(誰かが)この間の遺恨覚えたるかと声をかけ、切り付け申し候(中略)上野介これはとて、後ろの方へ振り向き申され候ところをまた切り付けられ候故、われら方へ向きて逃げんとせられしところをまた二太刀ほど切られ申し候」

 つまり、吉良は「遺恨あり!」と叫ぶ浅野に襲撃され、驚愕して声がするほうを振り返った瞬間に再び、斬りつけられ、さらに逃げようとしたところを二太刀も振るわれたことが分かる。

 その一方で、浅野が声を上げたとはいえ、背後から斬り掛かったことから相当に激昂していたことも垣間見える。実際、浅野は頭に血が上りやすい性格だったという説もあり、当日は精神的に不安定だったとされる。彼には「痞(一種の心身症)」の持病があったとする史料も残り、事件三日前には藩医である寺井玄渓から薬を処方されていた。

 こうした中、当日は「陰天(曇り空)」だっただけに、微妙な空模様が疾患を誘引し、怒りを爆発させた可能性が残るものの、むろん、それだけでは説明できない部分もある。事件の証言者である与惣兵衛はその発生前、白書院と反対側の大広間の角付近に座る浅野を見た。そのために自身がこの日、鷹司信子の使いを務めていることを彼に告げ、「諸事よろしきよう頼み入る」と伝えた。すると、浅野は「心得候」と言葉を返したといい、この時点では至って冷静だったことが分かる。

 にもかかわらず、浅野は間もなく吉良の姿を見るなり激昂し、いきなり斬り掛かった。だとすれば、このわずかな時間にいったい、何があったのか。

 そのヒントが『堀部弥兵衛金丸私記』にある。堀部弥兵衛金丸は有名な堀部安兵衛の義父で、赤穂浪士四七士の一人。その彼の私記に次のように書かれていたのだ。

■将軍綱吉が悪評を知り浅野を暗君と見なした

「(吉良が)殿中において諸人の前に(殿の)武士道立たざる様に至極悪口致し候由、(殿は)これによりその場を逃し候ては後々までの恥辱と存じ、仕らすと存じ候」

 事件当日、吉良は他にも人がいる前で浅野の悪口を言い放ち、それは彼の武士道すらも成り立たなくなるほどにひどい内容だったという。実際、武士道をけなしたとなれば、よほどの悪口。

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