“忠臣蔵”江戸城松の廊下刃傷事件浅野内匠頭「キレた理由は悪口」! (3/3ページ)
殿中であるとはいえ、浅野がそれを許したら、それこそ武士の名折れとして、彼が後々、世間の批判に晒されかねない。
むろん、あくまでも浪士サイドの情報だが、仮にこれが事実であれば、殿中で喧嘩を売ったのは吉良となり、浅野がその暴言を許すことができずに斬りつけたことになる。当然、殿中における刃傷沙汰は言語道断とはいえ、一方で、他の人がいる前で聞くに堪えない暴言を吐くことも許されるものではない。そうした意味で幕府は喧嘩両成敗の定法に則って双方を処罰するべきだったと言えるのではないか。
だが、吉良はお咎めなし。浅野は当日中に切腹となり、赤穂藩が改易となったため、旧藩士の怒りは頂点に達し、吉良邸討ち入りに事態が悪化したのだ。
では幕府はなぜ、浅野だけを処罰したのか。元禄三年(1690)に幕府の隠密が収集した調査内容を基に編纂したものとされ、当時の諸大名二四三人の性格や行跡が詳細に報告された『土芥冦讎記』に、浅野評がこう書かれている。「女色好む事、切なり。ゆえに奸曲のへつらい者、主君の好むところにしたがいて色よき婦人を捜し求めて出す輩、出頭立身す」
浅野が好色で、自身の好む女性を連れてきた者だけを出世させたという内容だ。当然、将軍綱吉も目を通したはずで、内容が事実であるかはさておき、儒教にはまった綱吉にすれば、浅野は暗君の代表に映ったはずで、悪評が不幸な結末を招いたと言える。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。