異例の大出世!戦国時代に商人から一大名にまで上り詰めた小西行長の活躍から斬首まで (3/4ページ)
行長は朝鮮に近いことと水軍の指揮権を有していたことから先鋒になったと考えられます。
上陸後は漢城、平壌と破竹の勢いで都市を制圧していきました。
他の隊も朝鮮の都市を制圧していくのですが、明軍の到来で戦場は混戦に。次第に兵糧不足に悩まされるようになり、この状況を見て行長は石田三成と共に明側と講和交渉に臨みました。
講和交渉では、行長はあろうことか秀吉は明に降伏する名目で講和を結んでしまいます。この内容を知った秀吉はもちろん大激怒。命を失うところでしたが、前田利家のおかげで事なきを得ました。
その後の慶長の役では講和交渉での失態をカバーできるくらいの武功を要求されたため、怒涛の勢いで朝鮮・明軍と戦いますが、慶長3年(1598)の秀吉死去と共に帰国を命じられました。
東軍ではなく西軍に与した行長帰国後は徳川家康に接近しますが、慶長5年(1600)に起きた関ヶ原の戦いでは家康側である東軍ではなく西軍として家康に対峙しました。