これが源氏武者の生き様だ。源頼朝の兄弟たちが迎えた悲運な最期【前編】 (3/4ページ)
そして捕らえられるより死を望んだ朝長は、父の手によって16歳の若さで幕を閉じました。
また能の演目である修羅能(武将が主人公の能)には朝長を用いた「朝長」があります。
四男・源義門
頼朝の弟で義朝の四男にあたる義門(よしかど)は頼朝と同じ母である由良御前から産まれました。
平治の乱の前に官職を授かっていた義門でしたが、平治の乱の最中で討死したとされています。
没年が不明であるので亡くなった年齢は推測でしかありませんが、頼朝が平治の乱では13歳だったので、それ以下と断定できます。
五男・源希義頼朝、義門と同じ母から産まれた希義(まれよし)は平治の乱で父と兄たちが亡くなった後、母方の伯父に捕まってしまい、永暦元年(1160)に10歳にも満たない年齢で土佐へ流刑となります。ちなみに頼朝も同年に伊豆へ流されています。
また土佐にちなんで、希義は土佐冠者(とさのかじゃ)と呼ばれていました。
その後、治承4年(1180)に頼朝が挙兵すると、希義も便乗して挙兵する気ではないかと疑いがかけられたことにより、平氏が希義追討令を出します。
希義は平氏からの追討を回避するために、自身に味方する夜須行宗の元へ行くことを計画します。
しかし希義の計画は平氏に洩れており、蓮池家綱と平田俊遠からの奇襲により希義は討ち死にしました。