これが源氏武者の生き様だ。源頼朝の兄弟たちが迎えた悲運な最期【前編】 (2/4ページ)
やがて、保元元年(1156)の保元の乱を経て源氏を取り巻く政治情勢が大きく変わっていきました。
そして平治元年(1159)、父義朝は藤原信頼と共に当時の天皇、二条天皇を擁立するためにクーデターを敢行。
二条天皇を擁立したのはいいものの、平清盛の元へ脱走した二条天皇は義朝たちの追討命令を出したことで、平清盛と戦うことになります(平治の乱)。
平治の乱には義平も参加し、鎌倉悪元太の名に恥じぬ奮戦ぶりを見せましたが、兵力差には勝てず敗北。義平は義朝たちと東国へ落ち延びます。
落ち延びている途中で父と離れ東国を目指しましたが、父の死亡を知ると清盛の暗殺を行うために京都へ反転しました。
その後は平氏に捕らえられ、永暦元年(1160)に20歳で六条河原にて処刑されました。
次男・源朝長康治2年(1143)に誕生した朝長(ともなが)は相模国松田に領地を持っていたので、松田冠者(まつだのかじゃ:冠者は若者の意)又は松田殿と呼ばれていました。
朝長は平治元年(1159)に、平治の乱が勃発すると父と兄義平と共に出陣します。そして敗北すると、兄たちと東国へ落ち延びます。
しかし、その途中で比叡山の僧兵が行く手を邪魔したため戦うことになり、朝長は左足に矢を受けてしまいました。
僧兵たちを退けた一行は別々で東国へ向かうため義平は東山道、義朝は東海道で東国へ向かいます。朝長は父と共に行くつもりでしたが、矢傷の悪化を理由に拒みました。